邪馬台国と狗奴国の推定
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- 10月23日
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1.はじめに
邪馬台国と狗奴国は「魏志倭人伝」にしか記録されていませんので、2000字程度で記述された文章を解釈して推定されてきました。しかしながら、「魏志倭人伝」は中国語で記述されているため、日本人の解釈では間違いが生じているのではないかと考えて、ここでは、日本に留学して日本語も理解している、中国人の歴史学者による解釈を採用して邪馬台国を特定いたしました。
また、「魏志倭人伝」の解釈だけでなく、雄略天皇が宋の皇帝に朝貢し提出した上表文の衆夷の国々であること、白村江の敗戦後に築かれた古代城が、「魏志倭人伝」に記述された当時の先進国である「倭国」の国々を守っていること、「古事記」や「日本書紀」に記述されている崇神天皇が派遣した四道将軍により邪馬台国が征服されたこと、等も考慮に入れて、邪馬台国と狗奴国、及び、倭国の国々を推定いたしました。
2. 古代日本の衆夷(しゅうい)と毛人(えみし)の国域
雄略天皇は478年、宋の皇帝に朝貢し以下の上表文を提出し、この中で、倭国の西の衆夷66か国、東の毛人55か国を征服したと宣言しています。
図表1 雄略天皇(武王)が宋の皇帝(順帝)へ提出した478年の上表文の一部

魏志倭人伝では、邪馬台国が存在していた時代の倭国(邪馬台国を中心とした連合国)は、卑弥呼は29か国、台与は30か国と晋へ報告していて、倭国は西の衆夷に含まれると推定しますが、他の衆夷と毛人がどこの国に住んでいるか、以下に示す考え方を採用して衆夷と毛人を推定しました。
おそらく、衆夷と毛人は生活習慣や神事、墓が異なり、両者を区別できたものと考え、ここでは墓(古墳)に着目して両者の区分を試みたところ、図表2から前方後円墳と前方後方墳が多い地域に区分(太点線)でき、図表3に示すように両者の国々が判明しました。
図表2 古墳分布数比較図(主要古墳数表示)
【西暦300年頃以前作成】 【西暦300年頃以降作成】

図表3 古代の衆夷(黒色塗)・毛人(灰色塗)区分図

この結果から、雄略天皇の時代には概ね新潟県と栃木県付近までを支配していて、衆夷と毛人の国々は以下に示すような区分であることが判明しました。
・衆夷地域:福井・美濃・三河より西側:66国(図表4のNO.1~NO.66)
・毛人地域 :遠江・信濃・飛騨・加賀より東側:55国(図表4のNO.67~NO.121)
図表4 古代の衆夷・毛人(黒塗)区分表

3. 歴代天皇の在位年代推算
宮内庁天皇系図の退位年・即位年は宮内庁ホームページに掲載されていますが、即位年を図表6にプロットすると、450年頃より以前は明らかに不自然です。このため、統計学を使用して、ほぼ正しいと考えられる天皇系の退位年・即位年を推定してみました。
宮内庁の天皇系図が不自然になる450年に少し安全をとり、500年頃の雄略天皇を固定点(退位年479年)として、一次試算~三次試算まで試算しました。
・一次試算:神武天皇の即位年は1年となりましたが、まだグラフが不自然でした
・二次試算:神武天皇の即位年を120年ずらし121年に即位したとして試算しましたがまだグラフが不自然でした(「古事記」・「日本書紀」は60年周期の六十干支で記述)
・三次試算:神武天皇の即位年をさらに60年ずらし181年に即位したとして試算しました
ただし、孝昭天皇~孝靈天皇と天皇称号に全て「孝」が付き不自然で、またこの3天皇の記述が他の天皇に比べて極めて少ないため、天皇から除外しましたが、孝元天皇については記録も多く、子供に四道将軍の「オワケ」や「蘇我氏の祖先」が生まれていることもあり、生存していると判断しました
この三次試算により不自然さが解消し、相関係数もr=0.9916と精度も高まりました。
この結果を踏まえ、天皇の退位年・即位年には三次試算を採用します。
図表5 天皇在位年試算表

図表6 天皇即位年図(即位年)

4. 古代地理概念
古代の中国や朝鮮の人々が日本との地理的な関係をどのように認識していたか、知る手がかりを図表7に示します。
この地図は、「15世紀末までヨーロッパのどの地図よりも優れていた世界地図」とされた「混一疆理歴代国都之図」の東部の一部を模写したものです。
中国や朝鮮の人々からは、室町時代でも日本はこのように認識されていたことになります。
日本国が誕生した西暦700年代には、これほど優れた地図は世界に無く、さらに年代を遡ると日本には紙も文字も無い時代ですから、現在の概念や知識で古代の記録を読んでしまうと、解釈を間違ってしまいます。
図表7 「混一疆理歴代国都之図1402年」一部模写

朝鮮から九州までの方角は南方向で、日本列島は南北方向と意識されていたことになりますが、実際には朝鮮から九州までは近似しますが、日本列島については東西を約90°反時計回りに回転させると、かなり正しい方角になります。
5. 中国人の魏志倭人伝解釈
日本人の「魏志倭人伝」解釈には間違いが多いと指摘されているため、中国人文献学者「謝 銘仁」による「邪馬台国 中国人はこう読む(謝 銘仁)立風書房 1983年10月10日」より解釈の主要注意点を整理します。
なお、「謝 銘仁」氏は、国立台湾師範大学中国文学科卒で慶応義塾大学社会研究課博士課程修了の社会学博士であり、上記した本を執筆時には国立台湾海洋学院大学教授であり、日本と中国の歴史の専門家です。
(1) 行程論
【P95:放射式の読み方は珍説】
『邪馬台国への行程記事について、順次式に読みとるべきか、それとも戦後、榎一雄氏が主張されたとする説、つまり伊都国からは放射式で読みとるべきなのか。』
【P73:順次式と放射式】
図表8 順次式と放射式説明図(著者作図)

【P96:魏志倭人伝の行程記事は順次式に記述】
****************************著者注記***************************************
「魏志倭人伝」の行程記事は順次式で記されています。(以下本文)
****************************************************************************
『伊都国以降の行程を放射式で読むのは、右の行程記事からみて、筋道が通りっこないのである。
その理由は、かりに伊都国を起点として、放射式に次々に国名をあげるのであれば、
東南に奴国
東に不弥国
南に投馬国
南に邪馬台国
のように、なぜわずか九十度(東~南)の方位内に所在していた四ヵ国だけをあげ、他の方角(南→西→北→東)にある別の部族国家名を一国もあげなかったのか疑問である。』
------------------------------省略------------------------------------------
『中国文として普通に読めば、伊都国以後の行程も順次式(迂回もありえる)をとったことに疑いの余地はなく、文脈的に不自然な感じがしないのである。』
(2)「水行すれば十日、陸行すれば一月」は誤釈
【P92:魏志倭人伝の麗辞的表現】
『 H項 南至投馬国(五字) 水行二十日(五字)
I項 水行十日(四字) 陸行一月(四字) 』
****************************著者注記***************************************
以下の文章の初めに登場するH項とI項はP92に上記のように示されています。また、中国語はリズムを重視するので同じ字数で統一されています。このため、「一月」を「三十日」と記述すると、「陸行三十日」(五字)となり字数が合いません。
****************************************************************************
【P93:『 8「水行すれば十日、陸行すれば一月」は誤釈』】
『H項とI項の簡単な記事からどんなことが考えられるのであろうか。
とくにI項の「水行十日、陸行一月」を「水行すれば十日、陸行すれば一月」、すなわち「水行十日」と「陸行一月」を“or”でつなぐ論者もいるが、これは文脈的に通じないばかりでなく、中国語のニュアンスからして、道理が通じない。また、中国の他の紀行文でもこの例を見ないであろう。』
------------------------------省略------------------------------------------
『陳寿がそうしなかったことから、魏使一行は、投馬国へは水行だけにたより、投馬国→邪馬台国間は、水陸両路を重ねたことが、おおよそ察せられよう。』
------------------------------省略------------------------------------------
『水陸両路にたよったことを記すさい、なぜ「水行十日、復陸行一月」と、その間に「復(また)」という字を差し込まなかったかについては、次の二つの理由が考えられる。
㈠ 修辞学的な立場からいって、「水行十日、陸行一月」の一句は、四シラブルのリズムのたたみかけであり、対句でもあるので、中国語で読むと、リズムの美が出てくる。
㈡ この日程記事は、先に水路を「十日」行ってから、引き続いて、陸路を「一月」急いだという意味ではない。地勢によって、沿海水行したり、山谷を乗り越えたり、川や沼地を渡ったり、陸地を行ったり、水行に陸行、陸行に水行を繰り返したという意味である。さらに、天候や何らかの事情により進めなかった日数や休息・祭日その他の日数も加算し、ト句の風習や干支の思想も頭に入れて、整然とした「二十日」「十日」「一月」で表記したのであろう。』
6. 中国人の魏志倭人伝の読み下し文
「魏志倭人伝」には朝鮮の帯方郡に置かれた、「魏」の出先機関である「帯方郡治」を都として、この都から日本までの距離と方角が以下のように記述されています。
**********【謝 銘仁 氏による魏志倭人伝の読み下し文:P39・40】***********
★【注1:朝鮮の記述】
『倭人は帯方の東南の大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時朝見する者有り、今使訳通う所三十国。郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東し、其の北岸狗邪韓国に到る、七千余里。』
★【注2:朝鮮~壱岐までの記述】
『始めて一海を度り、千余里にして対馬国に至る。其の大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。
居る所は絶島、方四百余里可り、土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し。千余戸有りて、良田無く、海物を食らいて自活し、船に乗りて南北に市糴す。
又、南一海を渡る千余里、名を瀚海と曰い、一大国に至る。官は亦卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里可り、竹木叢林多く、三千許りの家有り、差(やや)田地有り、田を耕すも猶(なお)食うに足らず、亦南北に市糴す。』
★【注3:末盧国以降から奴国までは国の位置が正しく推定されています】
『又一海を渡り、千余里にして末盧国に至る、四千余戸有りて、山海に浜して居み、草木茂盛し、行くに前の人を見ず。好く魚鰒を捕え、水の深浅と無く、皆沈没して之を取る。
東南に陸行五百里、伊都国に到る、官は爾支と曰い、副は泄謨觚・柄渠觚と曰ふ。千余戸有り、世々王有るも、皆女王国に統属す、郡の使往来するに常に駐まる所なり。
東南奴国に至る百里、官は兕馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰い、二万余戸有り。』
★【注4:ここから東⇒北、南⇒東と読み替えが必要です】
『東行不弥国に至る百里、官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰い、千余家有り。
南投馬国に至る、水行二十日、官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰い、五万余戸可り。
南邪馬壱(邪馬台)国に至る、女王の都とする所なり、水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り、次は弥馬升と曰い、次は弥馬獲支と曰い、次は奴佳鞮と曰い、七万余戸可り。』
★【注5:ここから北⇒西と読み替え、奴国へ向かって逆行します】
『女王国より以北は、その戸数・道里の略載を得可きも、其の余の旁国は遠絶にして、詳を得可からず。次に斯馬国有り、次に巳百支国有り、次に伊邪国有り、次に都支国有り、次に弥奴国有り、次に好古都国有り、次に不呼国有り、次に姐奴国有り、次に対蘇国有り、次に蘇奴国有り、次に呼邑国有り、次に華奴蘇奴国有り、次に鬼国有り、次に為吾国有り、次に鬼奴国有り、次に邪馬国有り、次に躬臣国有り、次に巴利国有り、次に支惟国有り、次に烏奴国有り、次に奴国有り、此れ女王の境界の尽くる所なり。』
★【注6:ここからの【南】は「東」と読み替えが必要です】
『其の南に狗奴国有りて、男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗有り、女王に属さず。郡より女王国に至る万二千余里。』
7. 魏志倭人伝の距離計測
魏志倭人伝の距離については、当時の中国の距離単位1里は現在の415m~450m程度であり、平均すると約430mとなりますので、邪馬台国までの距離12,000里をメートル(m)換算すると5,160kmとなり、邪馬台国は太平洋の中となってしまいます。
このため、朝鮮の「帯方郡治」からの正確な距離を、図表9に黒線で示すルートを計測して距離12,000里がどこに位置するか推定してみました。
図表9 魏志倭人伝の距離計測図

この結果、「帯方郡治」から「狗邪韓国」までの距離は860km、「狗邪韓国」から「末盧国」までは190km、「末盧国」から「奴国」までは45km、「奴国」から「岡山(距離が一致するので邪馬台国と推定)」までは345km、「岡山」から「大阪」までが150kmと計測できました。
魏志倭人伝に記録された国々で、現在までに「帯方郡治」から「奴国」までは位置がほぼ確定されていますので、この間の測定距離1,095kmが魏志倭人伝に記述された10,600里となるためには「103m/里」程度の単位距離が使用されていたことになります。しかし、朝鮮国内であれば沿岸を水行するため距離は比較的正確に計測できますが、「狗邪韓国」から「末盧国」までは大海を渡ることから当時の技術では不正確な計測ではないかと推定します。
このため、比較的正確であると考えられる「帯方郡治」から「狗邪韓国」までの距離860kmを、魏志倭人伝に記述された7,000里として距離単位を求めると、
当時の1里の距離単位=860km/7,000里≒120m/里
となり、1里は120mの距離単位を採用していると推定しました。
この距離単位を使用して「帯方郡治」からの距離(里)を求めると、図表10に示すようになり、「岡山」が12,000里に相当することから、この距離単位と12,000里が正しければ「邪馬台国」は「岡山」であると推定できます。
図表10 「帯方郡治」から12,000里に相当する位置の推定

8. 魏志倭人伝の記述上の特徴
魏志倭人伝の「読み下し文」を先に示しましたが、この文章を【注1】~【注6】に分解して整理したところ、次のような記述上の特徴を発見しました。
*************************************************************************
【注1】 倭人は30か国とされているが、「狗奴国」を加えても29か国(奴国重複)
***************************ここから距離表示********************************
【注2】 「水行」→「距離」→「国名(対馬)」→「戸数」
「方角」→「水行」→「距離」→「国名(一大)」→「戸数」
【注3】 「水行」→「距離」→「国名(末盧)」→「戸数」
「方角」→「陸行」→「距離」→「国名(伊都)」→「戸数」
「方角」→ 「国名(奴)」→ 「距離」→「戸数」
「方角」→ 「国名(不弥)」→「距離」→「戸数」
**********************ここから日数表示******************************
【注4】「方角」→「国名(投馬)」→「水行」→「日数」→「戸数」
「方角」→「国名(邪馬台)」→「水行」→「日数」→
「陸行」→「月数」→「戸数」
**********************ここから距離・日数表示なし*********************
【注5】「女王国」から西の「奴国」に向かって折り返して「国名」を順次記述し、
最後は「奴国」で終わる
********************ここから「女王国」「狗奴国」紹介*******************
【注6】「女王国」の東に「狗奴国」あり、「男子王」
朝鮮の「帯方郡治」から12,000里で「女王国」に至る
*************************************************************************
上記の記述の特徴から次に示す事項が判明しました。
①倭人は30か国とされているが、「狗奴国」を加えても29か国(奴国重複)が正しい
②「帯方郡治」から「不弥国」までは距離が採用され、「投馬国」から「邪馬台国」までは日数が採用されていることから、「投馬国」から「邪馬台国」までの距離は不明確である
③朝鮮の「帯方郡治」から始まり「奴国」・「不弥国」まで、「不弥国」から「女王国」まで、「女王国」から「奴国」まで、最後が「奴国」で終わる一筆書きで国名が順次記述されている
④「邪馬台国」の東に「狗奴国」が存在している
⑤朝鮮の「帯方郡治」から「女王国」までの距離は12,000里(1,440Km)
9. 魏志倭人伝の国名記述順序(循環式を提示)
魏志倭人伝の記述の特徴を踏まえて、「帯方郡治」から最後が「奴国」で終わる一筆書き(循環式)で国名を図化した結果を図表11に示します。
この図では「奴国」は一度しか登場しないため倭国は28か国となり、これに「狗奴国」を加えた29国に「A」~「CC」の記号を割り振り示します。(「CC 狗奴国」未記入)
図表11 魏志倭人伝の国名記述順序(循環式)を図化

図表11に示した国の現在位置については、郡名・地名、律令国家国府、白村江の敗戦後に築かれた古代城、等の場所を考慮して、図表13に示すように選定しました。
また、図表13で選定した国名を地図に記入して、選定図として図表14に示します。
ただし、G投馬国・H邪馬台国については、現在までに残された資料では郡名・地名に相当する場所を特定できないため、上記に図表12の条件を加えて選定します。
図表12 上記の選定基準で選定できない地点の追加選定基準
選定条件 | G 投馬国 | H 邪馬台国 |
記紀に記述有 | 神武天皇多祁理宮 | 神武天皇高島宮 |
古代集落遺跡有 | 広島県広島市 | 岡山県岡山市 |
10. 古代城
白村江の敗戦(663年10月)後、唐・新羅軍が日本に侵攻してくる可能性があり、唐から664年に唐使が派遣されたことから警戒を強め、大宰府の防衛のため筑紫国に水城、瀬戸内海や九州の主要国の防衛のため各地に山城、などの古代城が築かれました。
魏志倭人伝に記述された国々は当時(250年頃)の先進主要国であり、白村江で敗戦した天智天皇の時代(670年頃)でも同様に重要な国々であったため、古代城で守ったと推定します。この古代城の一覧表を図表15に、位置図を図表16に示します。
図表13 魏志倭人伝の国名から現在地の選定結果

図表14(1) 魏志倭人伝の国名選定図(記述順を矢印表示)

図表14(2) 魏志倭人伝の国名選定図(記述順を矢印表示)

図表15 古代城一覧表

図表16(1) 古代城位置図

図表16(2) 古代城位置図

11. ヤマト王権の支配国変遷
ヤマト王権の歴代天皇の婚姻関係や軍事行動と巡行行動記録から、ヤマト王権の支配国がどのように変遷し国域を拡大したか、その推移を次に示すような基準から推理いたしました。
①軍事行動で支配された国(大和から離れた国までの軍事行動順路も支配国)
②皇居が置かれた国(戦時の一時的居所は除く)
③天皇が巡行した安全な国
④支配国に隣接する国で、天皇親族と婚姻した一世代後の国
⑤周囲の全てが支配国になり囲まれた一世代後の国
⑥一度支配された以降の国
図表17 歴代天皇の支配国(黒塗表示)

図表18ヤマト王権支配国域図


12. 魏志倭人伝当時の戸数・人口推定
西暦元年から日本国建国(702年)付近までの倭国とヤマト王権の人口を整理して、図表19、図表20に示します。(澤田吾一氏と鬼頭宏氏が推定された各地の人口基礎資料から推定)
魏志倭人伝が記録する卑弥呼の時代(250年頃)では邪馬台国人口が断然多く、他の倭国を圧倒しています。一方、ヤマト王権(狗奴国)の人口は200年では邪馬台国と同じ程度ですが、280年(崇神天皇の時代)になると大きく開きます。その理由は、ヤマト王権(狗奴国)が軍事力により国々を征服し国域を広げ、280年頃には強力な国家になっていて邪馬台国を滅ぼしたためと推定します。
図表19 魏志倭人伝の倭国とヤマト王権の人口推計

注記:大和国は現在の奈良県、ヤマト王権は征服した国々を含みます
図表20 邪馬台国・ヤマト王権(狗奴国⇒倭国⇒大和国)人口推移


※2025年10月31日発売の「日本古記」東京図書出版から纏めたものです。




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